2015年9月23日 (水曜日)

高遠城(長野県伊那市)

気の向くまま公開している、日本百名城登城日記です。

【会津若松城】の次は会津初代藩主の保科正之公つながりで、長野県伊那市の【高遠城】にしました。

【高遠城】へ公共交通機関で登城するには、まずJR飯田線の伊那市駅からバスに乗り替えて、高遠駅(駅というが、バス停の名前です)に向かわねばなりません。

当初は青春18切符で始発電車を使って、JR伊那市駅に行こうと思っていましたが、何故か新宿から高速バスを使うことに・・・。

お盆の時期の高速道路は思い切り渋滞・・・JR伊那市駅に着いたのは90分遅れでした。

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高遠駅に向かうバスを待つこと1時間・・・JR伊那市駅の駅員さんに『何でこんなに電車が来ないの?』と聞いたところ、『周りに人がいないでしょ!!』と怒られちゃいました(笑)

やっと路線バスを捕まえて、高遠駅に向かいますが・・・炎天下の中、そこから更に1キロ以上の徒歩&坂道登りです(泣)

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坂道を登り切り、【高遠城】に向かいます。

写真の左手は【高遠城】で、切り立った崖。写真の右手は渓谷となっています。

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【高遠城】の百名城スタンプが置いてある、高遠町歴史博物館に到着する直前、先程の渓谷にかかる橋に呆然・・・すごい。

 

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左を向くと高遠湖が広がります。とんでもないところに来てしまったな・・・。

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百名城スタンプは上の写真の高遠町歴史博物館に置いてあります。

以前は外に放置されていたので、印影が悪いとの評判でしたが、今回はバッチリでした。

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さて、【会津若松城】からの登城日記リレーのきっかけとなった、保科正之は2代将軍、徳川秀忠の庶子。3代将軍:徳川家光や駿河大納言:徳川忠長の異母兄弟にあたります。

徳川秀忠は正室の江の方の嫉妬をおそれ、正之を高遠の大名、保科正光に預けたとのこと。

本来は徳川もしくは松平を名乗れる保科正之でしたが、恩義を忘れず保科の姓を名乗ったとのこと。

後に徳川家光を補佐したとのことです。

その2へ続く・・・。

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2015年9月21日 (月曜日)

会津若松城 完結編

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【会津若松城】はJR会津若松駅からバスを使った方が良いくらいの距離にありますが、白虎隊自刃の地:飯盛山はJR会津若松駅から歩いていけなくもない。

入口は上の写真でいうと、右下あたり。ここから一気に階段を使って白虎隊の墓に向かってもよいですが、なかなかハードです。

ゆったりと登るのならば、一度左の方に進んで、ゆっくりと登って行った方が良いかと。

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そのゆったりコースの途中にあるのが【さざえ堂】です。

階段ではなく螺旋式の登り坂をグルグルと登りながら、はたまた下っていくという、珍しい塔です。入場料は数十円だったような・・・。

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こんな感じで登って行って・・・・。

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こんな感じで下って行きます・・・。意外と内部は狭いです。

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【白虎隊士の墓】です。

新政府軍との闘いから退却し、煙に包まれた会津若松城を見て、落城と判断して自刃。

もう少し冷静な判断は出来なかったかと思いますが、20歳前の純粋な若者の死を思うと、この墓場では何も言葉に出来ず、ただただ涙が出てきます。

【会津若松城】の城めぐり日記は以上です。

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2015年9月20日 (日曜日)

会津若松城 その4

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【会津若松城】の【本丸】に戻り、さきほど裏側から見学した【鉄門】の表側を見学します。

全面鉄板張りの立派なものです。

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その【鉄門】の内部から外側(つまり【帯曲輪】側)を眺めた【会津若松城天守】

右側にちょっと見えるのが【走り長屋】です。

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蒲生 氏郷が豊臣 秀吉の命令で会津に下った時の築城なので、天守台石垣の角は算木積に近いものの、まだ完成型に至っていない模様。

一番下の石垣石の巨大なこと・・・。

現在は5重の復元天守となっている【会津若松城】ですが、最初に蒲生 氏郷が築城した時は、7重天守だったとか。

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確かに、現在の天守の周りを余裕を持って、土塀が囲っているので、天守の平面面積より天守台石垣の平面面積の方がはるかに広い感じがします。

やはり7重天守は現在の天守よりも2回りは大きかったのかもしれません。

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さて、帯曲輪でレンタサイクルを借りて、機動力をアップします。

上の写真は【西出丸】の石垣を北西側から眺めたもの。

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ぐるりと南側に回ると、本丸の南側に出ます。こちら側は石垣ではなく、土塁で守られていますね。

木々の間に【干飯櫓】が見えるかな。

このまま水濠沿いに進むと、先程の廊下橋方面に出ます。

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会津若松城から東北東方面に自転車で10分ほどで、【御薬園】に到着します。

【御薬園】は会津藩2代藩主:保科 正経公が別荘に高麗人参などの薬草栽培を試みたのが始まりだそうだ。

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庭園の中央:亀島には楽寿亭という茶室があります。

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【楽寿亭】には戊辰戦争時の刀キズ跡も残っている。

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レンタサイクルの機動力?を活かして、【御薬園】の次は阿弥陀寺に向かいます。

阿弥陀寺には【会津若松城】の本丸にあったという、【御三階櫓】が移築されています。

密議に使われたようで、他の者が登って来れないように、上に登るハシゴを引き上げてしまうことも出来たそうだ。

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阿弥陀寺の墓場に並んで【御三階櫓】が立っています。

墓場の中には新撰組の生き残り、斎藤 一、のちの藤田 五郎の墓もあります。

その5へ続く・・・。

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2015年9月16日 (水曜日)

会津若松城 その3

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【茶壷櫓跡】から北を眺めると、【本丸】の東面の高石垣が見学できます。かなりの高さです。

向こうに見えるのが【本丸】と【二の丸】をつなぐ【廊下橋】です。(もっとも現在は屋根もないため【廊下橋】と言うのは間違いかもしれませんが。)

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虎口まで近づいてみると【廊下橋】はこんな感じです。

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更に【虎口】を見下ろしてみるとこんな感じです。ここもセオリー通りのジグザグクランク状の通路となっています。

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【本丸】の外に出る前に、【本丸】内の遺構を紹介。まずは【本丸】の南西隅にある【茶室麟閣】です。

豊臣秀吉によって切腹となった千利休の茶道が途絶えるのを憂う会津若松城主:蒲生氏郷が、利休の子、千少庵をかくまったそうだ。

蒲生氏郷のとりなしにより、千少庵は京都に戻り、その子孫により、表千家、裏千家、武者小路千家が興されたそうです。

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【会津若松城】の本丸内のもう一つの遺構、【御三階櫓】の石垣台です。

実は【御三階】は【会津若松城】の外に移築されています。これは後ほど見学します。

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【本丸】から抜けて、【帯曲輪】を経由して、先程の虎口に向かいます。

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虎口を外から見た写真。【会津若松城】の天守の屋根がちょっと見えますか?

作業用の軽トラックがたまたま駐車していますが、その虎口の大きさが分かると言うものです。

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【廊下橋】から高石垣を眺めた写真。

高石垣の端っこに、これまた高い土塁があり、その上に【茶壷櫓】が立っていました。

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【二の丸】から【廊下橋】を眺めた写真。

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あまり目立ちませんが、【二の丸】の南端にある、かつての虎口の石垣です。

立派な切込接の石垣です。

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【二の丸】を南に抜けて、【本丸】の周りにある水濠の写真です。

向こうに見える住宅地は【本丸】の南側にあります。そこも後ほど見学します。

その4へ続く・・・。

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2015年9月14日 (月曜日)

会津若松城 その2

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平成23年に赤瓦に吹き替えられた【会津若松城天守】ですが、オレとしては写真の色の瓦屋根の【天守】も捨てがたい。

大雪で瓦が水分を吸って割れてしまうので、耐寒性のある赤瓦の方が正しいのですがね。

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【会津若松城】の本丸の模型です。

【天守】の右側が【本丸】で【御殿】の跡も表示されています。【天守】の左側が【帯曲輪】です。

中央の曲輪が広いため、【会津若松城天守】と下に伸びる【走り長屋】で【本丸】と【帯曲輪】に分けています。こういう縄張りは珍しい。

他の城郭だと、曲輪の中央に建っているというはあまりないです。

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【天守】最上階から北方面を眺めます。写真中央のやや右あたりが、戊辰戦争で白虎隊が自刃した飯盛山です。

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【天守】から南を見下ろすと、【天守】から続く【走り長屋】と【鉄門】、そして赤い瓦屋根の【南走り長屋】と【干飯櫓】が続きます。

【走り長屋】はお土産店になっております。

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見学順番が逆になりますが、南東方面から見ると、こんな感じです。

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売店のある【走り長屋】の出口から【天守】を望むとこんな感じ。

お土産を買ったからといって、【走り長屋】の出口から出てしまうと、【南走り長屋】と【干飯櫓】を見学できません。

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【南走り長屋】の窓から【鉄門】の裏側を見たもの。

【鉄門】の扉の動きからして、手前側が内側で、奥側が外になりますね。

そりゃそうだ、手前が本丸だもの。

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【干飯櫓】から【鉄門】の内側と【天守】を望んだもの。

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【干飯櫓】から出て、【南走り長屋】と一緒に撮影したもの。

ともに平成13年に木造で復元したものだそうだ。

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【会津若松城】の有料区間だけを見学するのは勿体ない。【本丸】の南側から東側まで端っこを歩いて見学してみましょう。

【本丸】の南東隅に位置するのが【月見櫓跡】の石垣です。

荒城の月の構想が練られた場所として、石碑が立っているそうだ。

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【本丸】の東側に位置するのが【茶壷櫓跡】の石垣台。

名前の通り、茶道具を保管していた櫓だそうだ。

その3へ続く・・・。

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2015年9月13日 (日曜日)

会津若松城(福島県会津若松市)

日本百名城スタンプラリーの登城日記、山口県の【萩城】の次は、宿敵の福島県の【会津若松城】にしてみました。

私事ながら、2008年5月3・4日と2009年6月28日の2度、【会津若松城】に登城しております。

紹介する写真も両方の城郭遠征のものを混ぜ混ぜして掲載いたします。

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会津若松だけを観光するのならば、JR会津若松駅周辺のホテルに宿泊して拠点にすべきだと考えております。

が、福島県の北部の【二本松城】、南部の【白河小峰城】、西部の【会津若松城】を見学するのならば、この3つの百名城の中心にあるJR郡山駅周辺を拠点にした方が良いかと考えます。

ちなみにJR郡山駅からJR会津若松駅を経由して、【会津若松城】まで高速バスが走っております。(記憶によれば運賃は1000円少々、時間も1時間程でした。)

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葦名氏が築いた【東黒川館】が【会津若松城】の原型。

縄張りも写真の通り、中央の曲輪に東・北・西に馬出曲輪を設ける簡単なもの。

ちなみに上の写真は下が北側になります。

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JR会津若松駅からもバスが出ていますし、先述のJR郡山駅からの高速バスも、【会津若松城】の北出丸の北側に停車します。

早速、広い水濠と【北出丸】の石垣がお出迎えです。写真左手(東側)をグルリと『コ』の字を描くように廻って、【北出丸】の【追手門】から入っていきます。

幕末の会津戦争の折り、薩長軍はどこから侵入してよいかわからずに、この【北出丸】から鉄砲を撃たれまくったらしい。

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北出丸の東側に開く、【追手門跡】(写真奥)です。

手前の石垣は【大腰掛け】と呼ばれており、守城兵が鉄砲を構えて追手門を守っていたそうだ。

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【追手門】の石垣から見下ろした【大腰掛け】の写真。

【追手門】の手前に守備線があったということです。

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城郭のセオリー通りに、【北出丸】の内部に入るためには、ジグザクとクランク道を入っていかねばなりません。

上の写真は【北出丸】に入ってから、【追手門】側を振り返ったもの。

【北出丸】は別名【薨丸(みなころしまる)】と呼ばれており、侵入した敵兵は四方から攻撃されたそうだ。

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【北出丸】には【武徳殿】という武術道場がありますが、城めぐり日記ですので、パス。

【帯曲輪】に入ってゆきます。ちょっと坂道になっていますが、【椿坂】というらしい。

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故意に人を入れて撮影しましたが、流石は松平家の城郭、【太鼓門】の石垣の鏡石が大きい。

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【太鼓門】を通って振り返った写真。

もちろんクランク状にジグザグと侵入しなくてはなりません。

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【太鼓門】をくぐって、すぐに会津若松城の見どころの一つ、【武者走りの石段】です。

ここの石段を登って、先程の【椿坂】から【太鼓門】に攻めのぼってくる敵兵を狙撃していたに違いない。

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【帯曲輪】を抜けて、いよいよ【本丸】に入ります。

なお、【本丸】があまりにも広すぎて、守備力が落ちるため、あえて石垣の壁で【本丸】を二分して、【帯曲輪】を作ったそうだ。

出迎えてくれるのは、【会津若松城】、地元の人は【鶴ケ城】と呼ぶそうですが・・・。

鉄筋コンクリート造りですが、東北の5重天守は他には無かったはず。

登城した時は黒色の瓦ですが、現在では耐寒性のある赤瓦に葺き変わっているそうだ。

その2へ続く・・・。

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2015年8月30日 (日曜日)

萩城 その10(完結編)

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萩城の見学を終了し、城下町の至る所にある遺構を見ていきます。

何度も萩城の模型の写真を掲載したときに、名前が出ていた【旧厚狭毛利家萩藩長屋】です。

毛利元就の直系は毛利隆元、毛利輝元と萩藩主となって続き、毛利元就の二男は吉川元春、三男は小早川隆景です。

毛利元就には三本の矢の教えに出てくる、上記の3名の他にも側室に産ませた子供がおり、その5男:毛利元秋が厚狭に領地を貰って、萩藩を支えたそうだ。

長さは50メートルの長屋には沢山の部屋があり、その一つに【萩城】の模型が設置されています。

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その萩藩の藩祖、毛利輝元の墓所、【天樹院】

入場料は100円以下だと思いましたが・・・関ヶ原の戦いで判断を誤り、120万石から30万石に転落した大名の墓場に行ってもな・・・。

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【旧益田家物見櫓】です。

益田親施は幕末の毛利敬親公の家臣だそうだが、禁門の変で長州藩が朝敵となった後、責任を取らされて切腹したそうだ。

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こちらは【繁沢家長屋門】だそうだ。

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で、こちらは【旧周布家長屋門】だそうだ。

見学すべきところが多く、じっくり見ていられません(笑)

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城めぐりすととして最後の見どころ、【北の総門】

復元建築ですが、なかなかのものです。

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萩城下には、木戸孝允邸、高杉晋作邸などがありますが、まあ・・・普通の旧家でした。

上の銅像は【高杉晋作】です。

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城下町見学の最後のスポットです。

大河ドラマ『花燃ゆ』でも何度も登場した【野山獄】です。

上級武士が入れられた牢屋ですな。

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こちらは下級武士が入れられた【岩倉獄】です。

ともに全ての跡地が残っているわけではなく、石碑があるだけです。

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上の敷地が当時の【野山獄】、下の敷地が当時の【岩倉獄】です。

【岩倉獄】は【野山獄】の4分の1位の広さしかない・・・。

【野山獄】の牢屋の配置が、大河ドラマに出てきたものと同じですね。

大河ドラマを見た後で訪問した方がよかったな。

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16時30分にJR東萩駅に到着。

約6時間30分程の萩城&萩城下町の観光でした。

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16時37分の山陰本線、益田駅行きに乗って帰ります。

充実した城めぐりでした。

おしまい。

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萩城 その9

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再び、旧厚狭毛利家萩屋敷長屋にある、萩城の模型に登場してもらいます。

指月山の山頂に【詰めの丸】、麓に萩城。

専門書によると、写真の右手(東側=つまり仮想的の江戸方面)の防御を厚くする設計思想だそうです。

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で、その萩城の東側の海。写真では伝わらない程の綺麗な海でした。

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萩城の東側にある【潮止門】から南側を見た石垣&土塀。

かつては石垣の傍まで海が広がっていたそうだ。

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こちらが、南から北に向かって眺めた萩城の東側の石垣&土塀です。

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萩城の東側は当時はこんな感じだったらしい。

ホントに旧厚狭毛利家萩屋敷長屋にある模型には想像をふくらますのに役立ちます。

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南北に走る石垣&土塀を南に進み、東側に開く虎口を出ます。

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虎口を出て、東側から萩城(指月山)を望む。

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写真の下の方にある角っこの石垣のあたりではなかろうかな。

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変わって、今度は萩城の西側。写真の岬は妙玖寺があった場所。

妙玖とは毛利元就の正室の法名。たしか大河ドラマでは富田靖子さんが演じていましたね。

なお、萩城から【詰めの丸】に登る際に通過するのが、洞春寺跡。洞春とは毛利元就の法名だそうだ。

流石に初代夫婦は扱いが違う。

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萩城の西側の方は、本当にのんびりしたものです。

城めぐりすととしては、ちょっともの足りませんが・・・。

これで萩城自体の見学は終了。

この時点で14時30分過ぎ。萩城を4時間も見学していたらしい(笑)

残りの時間で萩の町を急ぎ足で見学します。

その10へ続く・・・。

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2015年8月29日 (土曜日)

萩城 その8

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【詰めの丸】はいざという時の避難所なので、それほど広くはありません。

上段の曲輪と下段の曲輪がある程度です。

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ここでの見どころは矢穴を打ち込こまれ、割る直前までに至った岩です。

この用に割ってから、石垣石を作って、指月山の麓に運んでいったのでしょうね。

もしくは【詰めの丸】自体の石垣に使ったのかな。

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【詰めの丸】に入ってきた時の虎口とは反対側に、もう一つの虎口がありました。

ここからちょっと下って、当時はもう一つの曲輪に行ったそうですが、現在はとてもじゃないけど行けないそうです。

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そのもう一つの虎口が、【詰めの丸】の模型の写真でいうと、中央やや右側あたりかと。

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指月山の上にある【詰めの丸】からの景色。

萩の町が広がる方向は何とか見えますが、絶景だろうと思われる海側は木々に阻まれて全く見えません。

ちょっと残念・・・。

その9へ続く・・・。

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萩城 その7

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指月山の麓に石垣が残る【萩城】ですが、オレの楽しみは150メートル程の指月山の山頂に築かれた【詰めの丸】です。

いざという時は【詰めの丸】にこもって戦う設計思想は、中世の城郭のそれですね。

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【詰めの丸】の虎口に入ります。内部が見通せないようになっているところが、実戦的です。

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残念なのは、せっかく復元された土塀に落書きがされていること。

人気の無い山頂だからといって、また復元建築物とはいえ、これでは【萩城】が泣いています。対策を求めたいです。

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虎口に入って、振り返ったもの。

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虎口を抜け、石段を登って、振り返ったもの。

小さいながら、ジグザグと進まねばならないあたり、素晴らしい防御施設です。

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萩城の近く、厚狭毛利家萩屋敷長屋にあった、萩城の【詰めの丸】の模型です。

現在では建物なんて残っていませんが、写真の中央やや下の門が、先程見てきた虎口です。


その8へ続く・・・。

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